Edwina Horl 18SS

「PEACE PLEASE! on the move」

18SSのEdwina Horlは、平和をテーマにし、コレクションを創造されました。
世界各地で平和を唱えながらも、軍備を増強し軍事力を高めようとする姿は、まるで平和に対して白旗を上げているようにも映ります。
このテーマが、平和と戦争の関係性について見つめ直し、平和という概念を考えるきっかけになればと思います。



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空疎な平和

 

ジョージ・オーウェルの小説『1984』では、全ては「戦争は平和である※1」というスローガンを掲げ、全体主義的な統治を行う政党の支配下にある。
その世界では、平和とは常に望ましく、目指すべき理想的な状態とされているが、決してそれが実現される事はない。
戦争と平和というこの相反するものは、なんの矛盾もなく、常に同時に存在する事ができる。
例えばテロに対する闘いを考えてみれば、平和な状況にあっても軍備は投入され、また戦争が人道支援として妥当な手段と見なされる(軍事的人文主義)。
私たちは、オーウェルの描いた世界のような、 撞着語法の只中にいるのだろうか?

 

戦争は、市民を守り平和を維持するための手段として許容されるべきなのか、またいったい誰を侵略者とし、誰を平和を保証する者とみなすのか、この重要な問題については、激しい論争が起こっている。
起きた事件についての再解釈やその提示の仕方、原因が及ぼす影響を歪曲することといった情報操作は、戦争を正当化するために使われるテクニックである。
フェイク・ニュースの溢れるこの時代、私たちの抱く現代的な平和のイメージに対し、それがいったいどのような影響を及ぼすのだろう?
私たちの抱く平和のイメージは、どのくらい過去の戦争に結びついているのか、あるいは今行われている平和運動は、どうすればより効果的なものとなりうるのか、絶え間なくその姿や有様を変え続ける戦争や暴力に、どう対抗すればよいのか。

 

運動としての平和

 

平和運動の来し方を振り返ったとき、そのピークであった80年代、アメリカとソ連による核の軍備競争(NATO二重決定)に反対すべく起こった大衆運動がある。
核兵器のもたらす破滅の脅威は、様々な組織や階級の代表者によってイニシアチブが取られた市民運動への参加を一般市民に促した。
冷戦の危機が最高潮に達した80年代初頭における軍備競争の段階的拡大は、各陣営が同等の軍備を整える事が平和を維持する事に繋がるというモットーに基づき、軍備の拡張は、世界の安全を保障するものとされた。
ところが実際は、軍備競争は戦争の危険を増大させた。
資本主義圏と社会主義圏という、イデオロギーを異にする国々の間で起こった軍事的対立は、地政学的、経済的な優位性を獲得するべく、南米、アジア、それにアフリカへと対決の場を移していった。
第二次世界大戦後、和平合意は、外交的な「脅威の均衡」と、国内の市場経済の安定によって、各国社会の平和を保証するものであった。

 

1989年を転換点として、平和運動は、調停や紛争協議といった方法を要求し、そうした平和的な処置によって、具体的に紛争の解決を目指すように変わっていった。
例えば、旧ユーゴスラビアへの空爆(90年代)やイラク戦争(2003)においては、NATOの軍事行動が「国連の合意を得ていない」ことに反対するデモが繰り返され、それを境に平和運動の影響力や明快さは薄れていった。
戦後の平和運動における最大の共通基盤であった核の軍備拡大に対する抵抗運動は、西欧諸国においては、軍縮が進むにつれて、この問題の国内政治における重要性は低下していき、外交面では、核の保有を許される国、許されない国という二分法が、新たな紛争の火種をもたらした
軍備拡張の必要性や軍事攻撃は、どのようにして正当化されるのだろう?
武力による威嚇、ミサイルの発射、軍事演習や軍事行動、核兵器の保持、それにテロ攻撃までもが安全を守るためのカードとみなされる。
外からの攻撃によって、国内の安全が脅かされるだとか、国際条約違反であるとか、そういったことが軍備拡張を正当化するための理由として挙げられる。
誰々が脅威だとか、誰々が国際条約に違反しているだとか、そういった具合に話しが展開するときは、その情報の提供者が、根強くある敵対心をあおるために情報を操作している場合が住々にしてあり、それはウクライナ紛争やユーゴ紛争、そしてイラク戦争の時のように、情報戦争の様相を呈するのである。

 

軍備拡張の筋書き

 

政治的な措置を遂行しようとするとき、その前段階ではいつも決まった筋書きが繰り返され、世論の賛同を得るための土壌作りがなされる。
目下、日本においては軍備拡張を正当化しようという動きがあり、安倍晋三政権は北朝鮮問題や中国の軍事的な脅威を理由に、軍備や憲法改正の正当性を主張している。
安倍政権は、平和主義的な観点から制定された戦後憲法の、そのまさに平和主義を規定した憲法9条を骨抜きにしようとしている。
憲法9条において武力の行使の永久的な放棄と、そのために「軍隊」を保持しない事を宣言した日本は、「軍隊」を「自衛隊」と呼称することで、憲法に反して軍事力を保持することの矛盾を切り抜けようとしてきた。
この憲法9条の解釈をめぐる論争は50年代から延々と繰り広げられてきた。
そして、2014年7月1日の閣議決定が、その激しい議論の流れを一変させた。
この閣議決定で、政府は憲法9条の解釈を180度転換させ、憲法を改正する事なしに、それまで憲法により不可能とされていた集団的自衛権の行使を容認した。
そして2016年3月29日、この「新解釈」に基づく「平和安全法制 (安保法制)」が施行された※2。

 

安倍は軍事研究への予算をおよそ20倍にも増やし、海外派兵や共謀罪に関する法案を成立させた。
評論家は共謀罪に関する法案、「テロ等準備罪法案」に関して、犯罪組織を規定する難しさ、労働組合員や人権運動家、NGOの代表者、環境保護や原発反対派の活動家までもがこの法案の対象となる危険性を指摘した。
オーストリアにおいて、刑法278条のテロ対策法案が動物愛護家に向けられたように。

 

戦後憲法における平和主義を規定するものとして、日本人のアイデンティティを構成する憲法9条は、同時に自衛という名のもとでの再武装という矛盾もはらみ続けてきた。
安倍はその平和主義の思想に基づいて、自明とされてきたものを変える事を狙いとした。
戦後、世界中の国々が本来目指すべき在り方として、平和を希求することを法的に規定すべく制定されたこの憲法は、見方によってはオーストリアの掲げる永久中立※3の立場と並立するものである。
その一方で、日本はアメリカから軍備拡張を求められてきた経緯があり、それは今日でもなお、沖縄における米軍基地問題の争点となっている(35,000人の、日本の司法権の及ばないアメリカ人兵士が沖縄に駐留している)。
日本政府が在日米軍に対し年間に支払う駐留費経費の額は決して少ないものではなく、それは言い方を変えれば、アメリカが沖縄をミサイルの発射基地として使う事に、日本がわざわざ190億ドルものお金を支払っているということになるのだ。
そして興味深いのは、この国の在り方を一変させるような憲法9条改正に関する世論調査で、日本人の半数は、戦争を可能にするこの憲法改正に賛成しているということだ※4。
一方で、2015年8月30日、安保法制に反対する国会前デモ?に参加した人々は12万人にもおよび、国民は二分されている。

 

条約化された暴力のスパイラル

 

平和(いさかいもまた)とは条約や同盟、それに国際法の取り決めや合意に基づく状態で、これらの規定に対する違反行為の有無によって、そのいずれかに定義付けされる。
国際連合は193の加盟国により組織された国際機関で、国連憲章により国際平和の保持を最重要課題とし、国際法の遵守が人権ひいては国際協力の促進につながるとする。
しかし、1945年以降に西側諸国によって行われてきた戦争や国連の同意なしでの軍事行為に関しては、誰も明確に責任を問わないままになっている。
歴史家のダニエレ・ガンザーは、例えば2003年のイラク戦争のような違法な戦争が、暴力の負の連鎖を引き起こす原因となると非難する。
国連の同意なしでのNATO諸国、アメリカ、イギリスからなる連合軍の攻撃により100万人を上回る死者が出た。
そして当時、フセイン政権時代に、イラク軍の将校であったり、政治家であった者たちは、スンニ派のイスラム過激派組織、ISILの中核をなし、シリア情勢を不安定にするとともに、ヨーロッパにおいてテロを行っている。
シリアへの軍事介入も、同じく国際法に沿ったものではなく、1999年のNATOのセルビアへの空爆など、違法な軍事攻撃のリストは長いものになる。
ダニエレ・ガンザーによれば政権を交代させるためや、経済的、地政学的な利益を得るための軍事攻撃のほとんどが、暴力禁止の原則に反している。
国連憲章に従うならば、他国への武力行使が許される国は、ひとつとして存在しない。
つまり、1945年以降、すべての戦争は違法となったのだ。
例外として、自衛のための戦争と、国連安全保障理事会での決議がされたもの、そのふたつにおいてのみ武力行使が認められている。
また、近年ではいわゆるテロとの戦いにおける軍事行為も黙認されるようになった。

 

有権解釈をめぐる争い

 

軍備拡張や軍事行為が正当化される条件についての有権解釈をめぐっては、激しい議論が行われる一方で、さまざまなメディアで、市民に軍事行為を容認させるようなキャンペーンが展開されている。
戦争は、国家の安全が脅かされているという事を理由に正当化される。
その際、相手に甚大な被害をもたらすような攻撃や、違法な武力行使は、国民の目から隠され、むしろその攻撃が安全保障に寄与しているかのごとく偽装される。
イデオロギー的な立場が、同盟関係において、あるいはメディアによる報道の中でどう作用し、それが軍事行動の解釈にどんな影響を与えるかということは常に問題となり、その軍隊の出撃は平和条約違反なのか、平和確保のため、もしくは予防措置とみなされるのか、あるいは侵略行為と表現されるのか、そういったことに関わってくる。

 

戦争の本来の目的をごまかすための有権解釈、偽りの情報を流す、情報操作、人々の不安を煽る、といったことは、戦争がやむをえないものであると見せかけるテクニックである。
前線の様子、利害関係の存在、本来の意図、責任の所在、相手国との関係性といったものは「隠された戦争」によってますます見えないものとなり、またそれらの隠蔽は、無人機での攻撃、ネットワークに対するサイバー攻撃といった技術の進歩により、さらに完璧なものになる。
事実が歪められること、偽装工作、状況の不透明さによってプロパガンダに対する抵抗力はどんどん弱まっていく。
アレクサンダー・クルーゲは見ることができ記述することができる本当の戦争と、ポテンシャルとして常に内に存在する戦争とを区別する。
触れることも見ることもできる潜在的な暴力というものも存在する※7。
例えば自由貿易協定締結の際の駆け引きなどは、軍事的な和平交渉における様々な局面と重ねてみることができる。
一方は、協定の条件を協議する際にどの国がより良い条件を得るか、もう一方は、どの相手と契約すれば、より良い条件を通すことができるか、政治と経済の間、企業の利益と国民の利益の間、などにも同じ駆け引きが存在する。
どのような条件で、誰が除外され、誰が得をし誰がそんな役回りを担うのか、そういったことが常に問われる。
経済と平和と戦争の関係はいつも非常に複雑である。
経済や国家の財政は政治的な不安定さの影響を受けやすいため、経済協定を実現する前提としての、平和協定というものは商取引きの発生以来続けられてきた。
地方では、戦争は常にその真の意図を明らかにしない陽動作戦であり、大資本や大企業が多大な利益を生み出すための動力でもあった。

 

社会的な軋轢

 

国内政策における社会民主主義を通じて平和が確保されるという戦後の西欧諸国に共通した理念は、現在のヨーロッパにおいて、新自由主義の原則と市場原理主義の教義に取って代わられた。
社会的な不安定さや不平等、不満足といったものは国粋主義的なポピュリズム政党を躍進させる結果をもたらした。
資本主義の思想がはらむ潜在的な暴力が、競争や自己責任、規制緩和と言い表されるようになった。
実際、効率化や業績至上主義のスパイラルは、軍事的な文脈とはまた別のところで、人々を抑圧し、個人間での争いを生み出した。
クレジットカードやローン商品、デリバティブ取引などの金融サービスの革新が、そういった状況に拍車をかけた。
過去、現在、未来を通じて、そういった金融取引には、経済的、政治的、そして個人的なレベルでどういった潜在的暴力的が潜んでいるだろうか。
そして、そういった不本意な潜在的可能性は、どのようにして活性化されるのだろうか。

 

可能性としての平和

 

カール・フォン・クラウゼヴィツ(プロイセン王国の軍人で軍事学者 1780-1831)によれば、戦争の原型は終わりなく続けえられる一騎打ちであり、あらゆる戦争には、その一騎打ちが形を変え登場するのだという※8。
クラウゼヴィッツの戦略論や哲学は、軍事的戦略の発展よりはむしろ、マーケティングなどといった企業経営の分野に大きな影響を与えてきた。

 

戦争というものが常に違う新しい形でもって表れるように、それに対抗する方法もまた新たなあり方を要求される。
芸術、政治、環境保護、社会的または人道的組織、平和研究、紛争研究、資本主義批評家、それぞれの分野の垣根を超えて協力しながら平和的共存の新たな形を模索していくことが必要とされる。
「平和」とは、今、新たに創出され、そして見出せるべき概念なのだろうか?

 

ヘイトスピーチなどのようにソーシャルメディアを使って拡散される悪意が蔓延する世の中を考えたとき、平和に至るには、いったいどういった道筋をたどればよいのだろうか?
そして現在、人工知能を開発する過程においても、新たな規範が必要になってきている。
排外主義に対抗するため、対立を止め、主体と客体を分ける事を止め、さらにすべての生物を対等に扱うよう、ポストヒューマニストたちは要求する。
長年にわたって繰り返され続けてきた主体と客体という二元論は、ティモシー・モートンによれば内と外を区別することを起源としている。
さらに「環境破壊は人間のせいだという考え方は、無垢な自然というものが存在するという従来のエコロジー観によってもたらせている※9」という。
これは一つの考え方ではあるのだが、主体と客体の消滅が、平和的なつながりを促進するといった考えについては、慎重になるべきである。
社会保障の再分配、その恩恵を共有できるものとしてのテクノロジーの発展、自然環境との注意深く、思いやりに満ちた関わりといったものは、平和的な共存そして平和的な政治の前提となるものである。
そしてそのためには、新たな抵抗の形が求められているのだ。

 

※1 ジョージ・オーウェル,1984年,戦争は平和である,自由は服従である,無知は力である
※2 栗島智明 日本国憲法 9条に関する現代の議論-Die "Neuinteepretation" als Rechtsproblem,in:ZjapanR/J.Japan.L.42(2016)37-60.
※2 スイスを手本とした永世中立国より、1955年占領4ヵ国とのオーストリア国家条約が締結されオーストリアは独立を取り戻す。
※2 フローリアン・レッツァー,"日本政府が北朝鮮問題を軍備拡張に利用",Telepolis,2017/5/3
※2 ヴォルフガング・ボムレーン,日本:海外派兵への抵抗,Telepolis,
"8/30 およそ12万人が安倍の軍事計画に反対するデモを行う(主催者発表)。
これは首都圏では2012年の反原発デモ以来の大規模なモノであった。
同日、日本各地でさらに300件以上のデモが行われ海外での軍事行為および憲法改正に反対したシドニー・モーニング・ヘラルド紙が報じた。"
※2 参照,違法な戦争,ジェンス・ヴェアニケとダニエレ・ガンサーの対話,NachDenkSeiten
※7 アレクサンダー・クルーゲ(dctp)戦争と平和について(dbate-Interview)
※8 アレクサンダー・クルーゲ,同書参照
※9 ティモシー・モートン,Okologie ohne Natur,Berlin 2016,S.101 f.

 

Sabina Muriale
翻訳 小沢さかえ/菊池雅子




 

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