Edwina Horl 17-18AW

「Down to Earth」
"土着"

17-18AWのEdwina Horlは、土着と題したテーマのもと、アイヌ民族にフォーカスをし、コレクションを創造されました。
先住民を意味する土着。
世の中に情報が溢れ、利便性が高められていく中でも、それには流されず、民族としての誇りを持ち続けている人々。
代々受け継がれている様式を守る姿には、心を打たれるモノがあります。
このテーマを機に、一民族、そして一生物としての自分の本来の姿を見つめ直して頂き、今後のライフスタイルに繋がる何かを得て頂けたらと思います。



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「一歩踏み出し、それから振り返る」

 

「ふたりの女性が出会うと、彼女たちは互いに顔を見合わせ、手と手を擦り合わせ、それをぐるりとまわして手のひらを上に向ける。
そして、その手を互いの頭の上に置いて髪に沿ってなでおろす。」
(Alrette and Andre Leroi-Gourhan『アイヌへの旅-北海道』1938年)

 

もし、ネットで急いでなにか知りたいことがあり(そういうことはよくあるのだが)なおかつそれについて書かれた記事にざっと目を通したいとき、記事をスクロールして飛ばし読みしながら、そこに書かれていることを瞬時に理解できるような画像ができるだけ多く出てこないかと期待する。
マイクロソフトの研究によると、私たちが集中力を維持できる時間は2000年には12秒だったのが2013年には8秒に減少し、我々の集中の持続力は、金魚のそれを1秒下回ることになったというのだ。

 

その時点から、さらに4年が経っているので、その研究結果もいまや古いものになっている。
今、私たちを取り巻く状況はどう変化しているのか。
情報の総量は増え続け、ソーシャルメディアを積極的に活用することによってもたらせる可能性はあらゆる分野に広がり、そして、スマートフォンの高機能、多機能化はとどまる事を知らない。
視覚的な刺激の氾濫や、中身のないWebページに付けられたどぎつい見出し、そういったあからさまなクリックベイトのからくりに誘導され、情報だけが渦巻く底なしの世界の深みに引きずり込まれていく。

 

今日では、オンラインの環境にあるのが当たり前になり、オフラインの状態にとどまるには、堅い意志が求められる。
デジタルのパラレルワールドから逃れる事は、もうほとんど不可能なのだが、それでもなお、その世界で費やされる断片的な短い時間が積み重なって、我々の持てる時間がゆるやかに喪失していくことを意識しようとする試みがなされたり、それが郷愁によるものだったとしても、例えば、実際に対面して会話したり、ものに直に触れるといった、直接的なコミュニケーションを、バーチャルなCGではなく本物の素材を、氾濫するイメージではなく内容を、もしくは時間をかけ文章を読む、といったことを希求し始める
幸運にも、現状に逆風は吹いてきている。

 

たとえばこんな具合に。
スイスのインディペンデントマガジン"REPORTAGEN"は2011年の創刊以来、文学的な記事のみで構成し、写真を掲載しないというスタイルで、読者を楽しませている。
それも紙媒体で!
もちろんデジタル版もありはするが、紙媒体での出版ということが、危機的に瀕している今の世の中において、これはやはり注目すべき現象である。
写真はいっさいなく、図像はあったとしてもイラスト、その分テキストにページが割かれる。
その記事を堪能するには、やはりそれなりのゆとりや、長時間の集中力を必要とするのだが、購読者は増加傾向にある。
これは、ニッチであれ、確実に需要を満たす製品があれば、人々はそれにあわせて歩みのスピードを落とすということの証明である。

 

デジタルな生活に疲れた私たちは、現実世界において、バランスを取るためのアナログな何かを探している。
また、最新の情報を知らなければならないという強迫観念に襲われたり、流行に乗り遅れまいという思いにとらわれたとき、あらゆるものごとのスピードを落とすボタンがあればいいのにと思う。
哲学者のオド・マルカードによれば、この変化し続ける現実を受け入れるには、人間の一生は短すぎる、という。

 

「私たちは、生活におけるあらゆることを、新たに定義し直せるほど、多くの時間を持ちあわせていない」
私たちが追い求めている新しさとは何なのかを知るためには、過去のできごや、これまでの価値観を回顧するということが必要なのだが、それが今、そっくり抜け落ちている。
そしておそらく、それこそが私たちが抱えるジレンマの原因の1つであり、日々増大する不満、ストレスが何によってもたらされているのかも説明がつくのではないか。

 

「いまや、古いものなくしては、私たちは新しいものに全く順応できない。
それは、私たちが加速度的に変化する世界に生きているからである」とマクワードは言い「様々な神々、いくつもの神話、といった画一化することに抵抗するような物語」を薦める。
そしてそれに必要なのは「聖堂であり、良い小説、美術館、図書館、それに哲学である」と。

 

過去を振り返ることなく、絶えず変化し続ける人間は、文字通り間違った方向へと導かれ、受け継がれてきた価値や伝統を引き継いでいくことを放棄してしまっている。
そういったものこそが、自らを高め、正しい道を見失わせず、また穏やかに生きる可能性をもたらしてくれるのに。

 

「手垢のついた近代的な神話に皆が騙されているために、万物は目まぐるしい変化を要求され、さらにそれが、テクノロジーの進歩にとっての規範とみなされている。
それゆえに、物事が古びてしまうスピードが、どんどん増してしまうという問題が起こる。
最新のものが古びていくスピードが増すほどに、風化のスピードも加速度的に増していき、そして瞬く間にそれまで古いと思われていたものが、また再び新しい価値をまとうことすらあり得る。
急速な変化は、我々と物事との間の親密さの欠落をもたらす。
子どもたちにとって、この現実世界は、いつも新しくそして未知のものであり、彼らは拠り所となる親密な存在を常に必要としている。
それが彼らのテディベアだ」

 

テディベアは、ボタンの目と手足の長い生地いよってのみ存在するわけではない。
すべての人にとってのテディベア的なものは、人との直接的なコミュニケーションや、立ち止まって何かを熟考したり、過去を振り返ったりする行為の中にも存在している。
彼らを取り戻す最良の方法は、デジタルで、そして加速し続ける世界の落ち着きのなさとは無縁の、静寂の中にいる事。
シンプルに、まず、オフラインにする事。

 

結局のところ、加速度的に変化するこの世界の抱える問題は、特に目新しいものではない。
19世紀ロマン主義時代の人々も、産業革命黎明期における工業化とは対極にあるものを探し求め、それを特に自然回帰や、ファンタジーに満ち、かつビーダーマイヤー的な世界といったものの中に見出した。
自己の内面に目を向け、郷愁の世界に没頭するように。
ここで、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの描いた<雲の上の旅人>(1818年)という絵が思い浮かぶ。
画面の中心で、孤独な男が観るものに背を向け岩の上に立ち、厚い雲の海に埋もれた切り立った岩山を眺めている。
自然の猛威を描いた作品であり、その自然の力は、これまでの人間によって作り出されたあらゆるものよりも、はるかに力強く見える。
先に引用したオド・マルカードの言葉のように。
韓国人イラストレーターのキム・ドンギュの作品にこの絵を下敷きにしたものがある。
その作品の中で、この旅人はさっと取り出したスマートフォンで、眼前に広がる風景の写真を撮っている。

 

これは、すべてを素早くスマートフォンの中に取り込み、そして次の瞬間にはインスタグラムに投稿する、という風潮をよく現している。
少し前にインターネットで広まった写真がある。
ボストン・グローブ紙のカメラマン、ジョン・ブランディングが撮った、ブルックリンとマサチューセッツの映画館の前で待ち受ける群集の写真である。
皆が手に携帯を持ち、映画スターが姿を現す瞬間をそのカメラに収めようと待ち構えているのである。
ほぼ全ての人が、手の中いっぱいの機器の画面だけを凝視している。
その枠の外で切り取られる事によって、目標を明確に捉えることはできても、その瞬間に枠の外で起こっていることは全て取りこぼされてしまう。
その場にいる全ての人人々が、自分のスマートフォンだけに意識を集中しているように見える。
たった一人の老婦人を除いて。
しかしその老婦人は規制の柵に、組んだ腕をのせてもたれかかり、わくわくと期待に満ちた笑みを浮かべながら、ただ単純に、その瞬間を楽しんでいる。
彼女はこの状況を記録しようとするわけでもなく、ただ待っている。
彼女は、それを誰か他の人とシェアしようとするわけでもなく、待っている。
彼女は、そこで起こった事を人に知らしめたり、自分がそこにいた事を証明するためにではなく、ただ自身がその瞬間に立ち会うために待っている。

 

様々な可能性があった中で、今こうなったこの世界で生きるというのは、一体どういうことなのだろうか。
この老婦人の振る舞いが、一つの現象として捉えられ、何かを象徴するような世界。
そして、我々は一体どこから来たのだろうという、その問いを改めて思い起こすような。
一見かけ離れているように見えるが、これはひょっとするとロジャー・ヴィレムセンが指摘したことに繋がるのかもしれない。

 

「以前、宇宙飛行に音楽を持っていった宇宙飛行士たちがいた。
しかし最終的には自然の音が入ったカセットテープしか聴かなくなったという。
雷鳴、雨音、鳥の鳴き声。
ある者は宇宙に野菜畑を作り、麦、エンドウ豆、カブ、ラディッシュ、キュウリなどを栽培していた。
手のひらで野菜を撫でては幸福な満足感を得たり、バケツの中の魚としてこの長い宇宙の旅に最後まで耐えられる事ができるのだろうかと深い悲しみを感じたりした。
旅の終わりに、彼らの卓越した仕事が、その技術的な限界に達した時、彼らは、生きるものの持つどうしようもない哀しみを知った。
とても精神的で、内面的で、全ての始まりに回帰するような」

 

クロード・レヴィ・ストロースは既に1955年に「悲しき熱帯」の結びの部分で、深く心を打つ文章を書いている。
人生における本質的なものは何かと問い直すように、目に見えるささやかで小さなものを細やかに観察する感性、時間や空間を止め、自分自身のために、そして他の誰かのためにあること。
ミヒャエル・エンデの物語の中でモモが私たちのために、勝ち取ったような。
そしてそのために、wwwをまわる慣れ親しんだ周回軌道から、時折はずれるべきなのだ。

 

「・・・・・我々の種がその蜜蜂の勤労を中断する事に耐える僅かの間隙に、我々の種がかつであり、引き続きあるものの本質を思考の比岸、社会の比岸に捉えることに在している。
我々の作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。
百合の花の奥に匂う、我々の書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。
あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫との間にも交わす事がある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに」
(クロード・レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』川田順三訳)

 

これらは、人間が関係性を取り戻すという意思の表明であり、それは私たちの起源がどこにあるのかということへ再び意識を向けるような、今現在における社会的な関係性である。
この考察から導き出される場所としての<ここ>は、もちろん私たちがこの世界の中で自信をどう位置付けているかで変わってくる。
もし私たちが自分自身を世界の中心として生きているならば、世界の残りの部分に対してとりうる態度というのは決まってくる。
このような、自分以外の人間に対しても、また大地や自然に対しても、それは同じことである。

 

"Humankind has not woven the web of life
We are but one thread within it
Whatever we do to the web, we do not ourselves
All things are bound together
All things connect"
(デッド・ベリーによるシアトル酋長のスピーチ)

 

だが、もし私たちが全ての物事の価値をこれまでどおりの基準で感じられなくなったとしたら、私たちの地球は、いままでと同じように回り、そして私たちの知覚は、いままでと同じように働くのだろうか。
もし私たちが、突然グーグ・イミディル族(オーストラリアのアボリジニの部族)のように、天体や方位から自分のいる場所を導き出すとすれば?
そうすれば私たちは、彼らのように、自分たちの身体に依存せず、「左右」という認識も使わず、万物が世界を認識するための普遍的なものさしになるだろうか。
さらに、自分の背後にあるものを指示すときに、自分の存在が障害物ではなくなって、わざわざ振り返ることもなくなるのだろうか。
そのようにして、自分自身が重要な存在でなくなったとしても、同時に、世界の他のあらゆるものより重要な存在であることは可能なのだろうか。
ものごとの間に感じていた距離は、いつの間にか消えてなくなる。
人間は何かとてつもなく、大きく、偉大なもの一部、私たちが自然と呼ぶもの中に含まれているのである。

 

"What is life?
It is the flash of a firefly in the night. It is the breath of a buffalo in the wintertime.
It is the little shadow which runs across the grass and loses itself in the sunset."
(クロウフット、カナダのブラックフット族の酋長)

 

今日まで、多くの先住民族(アイヌ人も含めて)が、精霊や神々は山、湖、川や木々それに動物に宿るという信仰を持ち続けている。
彼らの世界観を支えているのが祖先の魂、春の精霊、家の精霊、健康をそして心臓の働きを司る精霊といったものの存在で、このようなこの世のものではない存在は、時に神に呼ばれ、超自然的な神聖な存在と見なされて、儀式や信仰によりその御霊は鎮め崇められる。

 

「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」それに「ハウルの動く城」など、スタジオジブリの映画はこういった魅惑的な存在で溢れている。
そこには日本において未だ根強い影響力を持つ、八百万の神などとも言われるアニミズムの影響がみられる。
それはおそらく、アイヌ人の信仰とも根を同じくするものであり、隣人に対する敬意や、正義を重んじ守ろうとする価値観、そして自然との向き合い方などのベースとなるものである。
そして、ポニョやトトロ、その他、物語のなかの精霊の生みの親である宮崎駿は、こう述べている。
「私は新道の信者ではない。
しかし、私は神々に敬意を払うし、その神々の起源であるアニミズムが自分の中に深く根を張っているのを感じる」(2010年)

 

自分以外の人間や、自然に心を寄せることは、それらの存在を追体験して、理解する事が可能になるだけでなく、自分自身や、自分の住む場所であるこの世界と調和するためには不可欠なことのように思える。

 

"We can learn about it from exceptional people of our own culture, and from other cultures destructive than ours.
I am speaking of the life of a man who knows that the world is not given by his fathers, but it no damege, not because he is duty-bound, but because he loves the world and loves his children..."
(ウェンデル・ベリー、環境活動家)

 

"...We must protect the forests for those who can't speak for themselves such asthe birds, animals, fish and trees."
(チーフ・エドワード・ムーディー、ヌクサルク族の酋長 1999年)

 

人間らしさというものの価値を再定義すること、例えば連帯や共感、瞑想することがもたらす可能性や、守るに値する自然の美しさに心寄せることは、私たち自身の知覚を再構築することになり、それはこの世界を支える柱となりうる。
その柱は私たちに拠り所をもたらすだけでなく、世界に広がるデジタルカルチャーのネットワークが、単に副次的なものにすぎなくなる、新しくより良い未来に至るための指針でもあるのだ。

 

Sabina Muriale
翻訳 小沢さかえ/菊池雅子




 

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