Edwina Horl 17SS

「I AM AN ANIMAL」
"わたしは動物"

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17SSのEdwina Horlは、動物と人間との関係性について、疑問を投げかけられました。
人間が地球内での存在感を強めていく一方で、徐々に肩身が狭くなってきている動物たち。
しかし、動物の身体能力や動き、フォルムなどから得るものは多く、それらは身に着けるファッションアイテムから、移動手段の新幹線まで、様々な形で身の回りに取り入れられ、私たちの生活に豊かさを与えてくれています。
そのような能力高き動物たちに、敬意を抱き、同じ生物としてフラットな目線を持つことも必要なのではないだろうか?
このEdwina Horl 17SSコレクションを機に、今一度その関係性について見つめ直して頂き、新たな気付きや確信を得て頂ければと思います。



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「みんな動物、わたしは動物」

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人間と動物がどういった関係にあるかという事は、その社会の成熟の度合いを鏡に映すようなもので、社会の発展を示す指標として読み取ることができる。
動物がもたらす直接的、実利的な価値と、間接的、精神的な価値との間には、それを食べるものとしての動物というイメージから始まり、使役動物、頼れるお供、人との仲を取りもつ仲裁者、仕事仲間、あるいは、パートナーや子供と同等の存在、というように幅広く多彩なありようが含まれている。
この動物の置かれた状況を、ポストヒューマ二ズム的な考え方に立って考察するならば、動物を物とみなすのか主体性を持った存在とみなすのか、服従させるのか対等な存在として扱うのかという事が問題となる。
こういった態度は、人間と動物とが同じ土台の上に立ち、人間中心の視点や態度を改め、その関係性を新たに構築しようという試みである。
ここにおける主体は、個が集合しまとまった総体としてではなく、アイデンティティーは揺れ動き、常に変化しながら様々な物が入り混じり合う存在として解釈される。
そうして、人間と動物、人間とテクノロジーといった対立関係がなくなる事で、そのどちらか一方の帰属自体が消失し、個々の存在は、それぞれにふさわしいありようを示す。

 

こうした観点から、多くの国における目を見張るようなペットブームを見てみると、犬や猫に対する関心の高まりは、デジタル化やテクノロジー化が進むにつれて、自然と関わり方が変化してきたことによるものである事が分かる。
生活のあらゆる局面において経済が優先され、テクノロジー化、何よりもコミュニケーションのデジタル化が進むことで、社会との直接的な繋がりや、他者との身体的な親密さが薄れてきている。
テクノロジーがもたらす人間同士の関係のバーチャル化やデジタル化は、自分以外の何か、他者に触れたいという想いだけではなく、むしろ、身体的な親密さへの恐れをも引き起こしうる。
この恐怖心が刺激されることを回避するために、すでにプログラミングされたデジタルでバーチャルな関係性や、もしくはペットなどといった実在の繋がりが必要になる。
アニメのキャラクターやペットは、社会的な繋がりから、恋愛関係においてまで、パートナーや子供と代替可能な存在となり、もしかしたら将来的には、それらこそが理想的なパートナーであるとみなされるようになるかもしれない。
科学技術と自然、つまり合理性と非合理性という二つの価値観が人間を介して交わるのだ。

 

特定の場所で長い時間を過ごせば、そこに感情が生じる。
重要なのは、その質であり、そこでどういう関係性が生まれたのかという事である。
ソーシャルメディアによって広められた、何事にも定量化できる社会という幻想は、とりわけ孤独を生み出すことに繋がる。
猫カフェなどは、このような孤独の表出の典型と考える事ができる。
気持ちを満たしてくれるものへの欲求は、不安と背中合わせで存在する。
精神を慰撫してくれる存在としてのペットの価値は、経済に還元され、動物を撫で慈しむ時間には、対価が支払われなくてはならない。
動物に向けられる愛情が、サービス業の対象となれば、効率的で、実際的である一方、それは、私たちの抱える虚しさの表出であり、愛情や親密さといった感情を消費の対象とする事でもある。
ここで、こんな疑問がわいてくるだろう。
私たちは動物とどういった関係を築く事を望んでいるのか。
そこに何を期待し、何を夢想しているのか。
そして、人間の知識や知覚を超えた関係を動物と結ぶことができるのだろうか?

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動物を人間と同等とみなすこと、動物の主体性を認める事は、彼らにも苦しみがあるということの根拠となる。
とは言え、その苦しみは人間の認識の及ばないものである。
夏目漱石の小説「吾輩は猫である」(1905/1906)の中で、その主役であり語り手でもある猫は、西洋の個人主義を風刺し、日本的風建社会の一員である自分(我輩)に内在している権力欲および権力者の態度を笑いものにし、同時に著者独自の立場(著者の主観)も戯画化する。
また地方で、猫のまとう匿名性は主観を排除し、矛盾や逆説を良しとし、日本的、西洋的、それぞれの物の捉え方や問題への向き合い方、そして伝統的な考え方を戯画化する。
東西の儀式や、あらゆる分野の物事は、ごちゃ混ぜにされ、趣味良く、風刺を効かせて調理される。
人間の振る舞い、日常的な出来事、様々な学問、歴史、文学、哲学、等々がこの教養のある猫によって論じ、批評され、その一つ一つが彼の考察や解釈やジョーク、または研究の対象となる。
彼は西洋の近代思想や、合理主義のなかの非合理性を批判し、無為に過ごす事や、先進的な考え方を愛する。
しかし彼は、あくまでも言葉の猫であって、思考に実際の行動が伴うわけではなく、存在論的、認識論的な領域に留まるのである。
彼は巧みに風刺文学の形をとり、小説の中において、様々な矛盾や解決することに成功している。
ここで、円環が閉じる。
風刺的なアプローチは、手がかりとはならないものの、この漱石の小説とポストヒューマニズム的な思想と結びつきは、容易に想像できるのではないだろうか。

 

私たちはいつも科学技術の影響を強く受けており、それによって私たちが自然に対して抱くイメージも変容する。
しかし、21世紀においては、思弁的な、あるいは実験的な、人間という存在の概念も、また変わりつつある。
ロボットはより一層人間的な振る舞いをするようにプログラムされ、一方で人間は、これまで以上にロボットのように働くことを要求される。
この経済至上主義は、動物と人間の関係においても同じである。
一方で、すべての生き物が対等な立場に立つ事も求められている。
それは、人間、動物、そして科学技術から誕生するハイブリッドな存在も包括している。
例えば、私たちが古代の物語や、インドやエジプトの神々の世界の中に見出す、人間と動物が掛け合わされたような存在は、テクノロジーに支配されたバーチャルな空間において、新しいフォルムや意味を獲得している。

 

変化という要素、そして絶え間なく生み出される新しい発想が、モードのメカニズムである。
革や毛皮や羽などの本物の動物に由来する素材は、人工的な模造品を作り出すためや、それらを真似た装飾のための手本とされる。
そうしてできあがったものは、手本とした動物のフォルムや、その動物独自の佇まいを身に纏う事ができる。
Edwina Horlは、彼女のコレクションにおいて、人間と動物の融和の可能性を示唆し、動物を参照して、そこから連想されるものだけでなく、動物と人間の関係性の中に明確に存在する要素を風刺的に表現する。
馬を調教し飼いならす時に使われる乗馬用のヘルメットは戯画化され麦わら帽子になり、それを被って、行楽や休暇に出かけてはと提案する。
あるいは、羽や毛皮から作られる釣り用の疑似餌は、イヤリングとなり、別の獲物をおびき寄せる。
動物の中にある力を象徴する事や、動物の持つ特性と結びつける事がテーマなのではなく、人間と動物の関係の様々なありようをアイロニカルに解釈する事に、重きを置く。
コレクションの一つ一つは動物から名前がとられ、そのそれぞれの名前は、具体的な動物を連想されるが、そのデザインや素材は、必ずしもその連想にそぐうものではない。
物事の安易な分類、定義に風穴を開けて、初めて深呼吸する余地ができるのだ。
漱石の猫はそのことを知っていたのである。

 

Sabine Winkler
翻訳 小沢さかえ/菊池雅子

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